日本の和牛といえば、松阪牛、神戸牛、近江牛といった全国的に名高いブランド牛がまず思い浮かぶだろう。だが、それらの華やかな名声の影には、地元で愛され、知る人ぞ知る存在として静かに育まれてきた“地和牛”たちがいる。今回は、そうした隠れた逸品である「地和牛」の世界に焦点を当て、とりわけ幻と称される「村沢牛」や、自然放牧で知られる「短角牛」の魅力に迫ってみたい。
地和牛とは──地域に根ざした小さな誇り
“地和牛”とは、特定のブランド名を全国展開せず、地域内で流通する和牛の総称である。生産頭数が極端に少ないものが多く、地元の精肉店や限られた飲食店でしか味わえない。生産者が大規模な市場競争に身を投じることなく、あくまで地域の自然や飼料、伝統的な飼育法を大切に守り続けることで、他にない味わいと風味を生み出している。
こうした地和牛は、“希少性”だけでなく、“土地の個性”が如実に現れる点で魅力的だ。牛が食べる草、過ごす気候、育てる人──その全てが味に影響を及ぼすからだ。
幻の「村沢牛」──山形の奥深くで育まれる純血の血統
山形県最上郡の山間部に、村沢牛という伝説のような存在がある。地元では「幻の牛」とも呼ばれ、その存在を知る者も少ない。村沢牛は、黒毛和種の中でも特に純血に近い血統を守っていることで知られる。高度な交配による改良が進む現代において、あえて変化を拒み、先祖代々の種牛を守り続けてきた。
飼育は一貫して自然放牧。冬には牛舎に入るが、春から秋にかけては山の斜面で自由に草を食み、ストレスなく過ごす。飼料も極力地元産にこだわり、抗生物質や成長促進剤などの使用は極限まで抑えられている。これにより、肉質は非常にしっかりとしながらも、脂のキレがよく、甘さの中にどこか野性味を感じさせる独特の風味を醸す。
しかし、生産数は年間わずか十数頭。そのため市場には出回らず、地元の旅館や農家レストランで運がよければ出会える程度。まさに“幻”の名にふさわしい存在だ。
短角牛──北国が育む“赤身の王者”
一方、岩手県を中心とした北東北で生産される「日本短角種」もまた、地和牛の中では異彩を放つ存在だ。黒毛和種のような霜降り肉ではなく、赤身のうまみを前面に打ち出した短角牛は、明治期にアメリカから導入されたショートホーン種をベースに、日本固有の南部牛との交配によって生まれた。
特徴はその健康的な飼育スタイルにある。春から秋にかけては広大な山地で母牛とともに放牧され、自然の中でのびのびと育つ。子牛は母乳と草だけで育ち、自然淘汰に近い形で強い個体が残るため、病気に強く、筋肉の発達もよい。
赤身中心の肉質は、ヘルシー志向の現代人にとっても注目の的。食感はしっかりしていながら、口に含むとじんわりと広がるうまみがあり、焼肉やステーキはもちろん、しゃぶしゃぶや煮込み料理にも相性がいい。
地和牛の今後──“量より質”の時代に
日本では今、“食の個性”を求める動きが高まっている。大都市の高級レストランでも、あえて無名の地和牛を使い、そのストーリーや生産者とのつながりを重視するシェフが増えている。「A5等級」や「霜降り率」といった画一的な指標では測れない、“食の背景”が重視されるようになってきたのだ。
また、地和牛の多くは環境負荷の少ない循環型農業を採用しており、持続可能性の観点でも注目されている。自然との共生を前提とした飼育法は、いわば“未来型”の畜産とも言える。
終わりに──旅と食の交差点にある地和牛
もし、次の旅で日本の地方を訪れるなら、ぜひその土地ならではの「地和牛」を探してみてほしい。観光ガイドには載っていない、けれどそこにしかない味わいと出会えるはずだ。幻の村沢牛も、赤身の雄・短角牛も、地域に生きる人々の誇りと情熱の結晶。その一口は、風景や文化を丸ごと味わう体験へとつながっている。