日本旅行の計画に「温泉」を入れるかどうか、少し迷っていた。知らない文化への興味と、裸で入るという独特のスタイルへの戸惑い。その両方が入り混じっていた。でも、せっかく日本に来たのだからと一歩踏み出した体験は、結果として、旅の中でもっとも心と体が解けた瞬間になった。
訪れたのは、山あいの静かな温泉宿。玄関で出迎えてくれたやさしい笑顔、畳敷きの廊下の香り、遠くから聞こえてくるお湯の音。そのすべてが、日常とはまったく異なる世界への入り口だった。チェックインを済ませ、浴衣に着替えていざ大浴場へ。誰もいない脱衣所で深呼吸をひとつ。そうして静かに湯気の向こうへと足を進めた。
最初は、緊張した。服を脱ぎ、知らない空間に入っていくこと。けれど、洗い場で体を洗い、湯船に身を沈めたその瞬間、不安はすっと溶けていった。肌にまとわりつくようなやわらかい湯、じんわりと体の芯に届く温かさ。まるで温泉がこちらの緊張を見抜いて、静かに包み込んでくれたかのようだった。
お湯に浸かっているだけなのに、不思議と呼吸が深くなっていく。肩の力が抜け、目を閉じると、湯気の向こうに静かな世界が広がる。耳にはお湯が流れる音と木々を揺らす風の音。誰かの話し声も、笑い声も、やわらかく響いて心地よい。そこには言葉のいらないやさしい時間が流れていた。
温泉によってお湯の質はさまざまだという。無色透明の湯、白濁した硫黄泉、鉄分を含んだ茶色の湯。泉質によって肌触りも香りも変わり、湯上がりの感覚も異なる。この日入った温泉は無色だったが、肌がしっとりと整い、疲れが抜けていくのがはっきりと感じられた。まるで自分自身が洗い直されたような感覚だった。
湯上がりに飲んだ冷たい牛乳の美味しさは、言葉にならない。湯でほてった体に冷たい一口がしみわたり、思わず笑ってしまった。脱衣所で髪を乾かしながら鏡を見ると、頬が自然に赤らんでいて、どこか嬉しそうな表情をしていた。
温泉宿の魅力は、お風呂だけではない。館内の静けさ、夜の廊下の暗さ、朝の空気の澄みきり方。和食のお膳や、お布団のやわらかさ、襖を開けて見える小さな庭。すべてが心を整えてくれる。非日常ではあるけれど、どこか懐かしい。そんな安心感が宿全体に流れていた。
翌朝、もう一度お風呂に入ってから出発した。朝の温泉は夜とはまた違い、空が明るくなっていく時間の中でゆっくりと湯に浸かることができた。肌寒い空気と湯の温かさの対比が心地よく、出発前の体にやさしく染みこんでいった。
温泉は、ただ体を洗う場所ではなかった。そこには“自分をほどく”時間があった。知らない場所で裸になり、湯に身をゆだねるという行為は、最初こそ勇気がいるけれど、その先には大きな癒しが待っていた。
次に日本を訪れるときも、また温泉に入りたい。あの湯気の中で、もう一度、自分に戻る時間を味わいたい。温泉は旅のご褒美であり、自分への優しさそのものだった。