日本を旅していて、「本当にこんな場所があるんだ」と心から驚かされた場所のひとつが奈良だった。歴史ある神社仏閣、広々とした公園、そして何よりも印象に残ったのが、そこに自然に溶け込むように暮らす鹿たちとの出会いだった。最初は少し緊張していたけれど、目の前でぺこりと頭を下げる鹿の姿を見た瞬間、まるで絵本のページをめくったような感覚に包まれた。
奈良公園を歩くと、信じられないくらい自然に鹿がいる。道路の横断歩道を渡っていたり、観光客の間をすり抜けたり、木陰でのんびり寝ていたり。どの鹿も人間に驚くことなく、むしろ堂々としていて、まるで“奈良の主”のような存在感を放っていた。
観光案内所で「鹿せんべい」という特別なお菓子を買い、手に持って歩いていると、どこからともなく鹿が近づいてくる。最初は少し怖いかもしれない。でも、鹿たちは意外と礼儀正しく、じっと目を見てくる。そのまなざしのまっすぐさに圧倒されながら、おそるおそるせんべいを差し出すと、ぺこりとお辞儀をするような仕草を見せてくれる。その姿があまりに自然で、驚きと感動がいっぺんにやってくる。
この「お辞儀」は、観光客とのふれあいの中で鹿たちが覚えた動きだとも言われている。せんべいがもらえる=お辞儀をする、という無言のやりとりが成立しているのだ。中には少し積極的な鹿もいるけれど、攻撃的というよりは、素直に「欲しい」と伝えてくる感じで、どこか微笑ましい。
鹿たちは奈良の街と共に生きていて、信仰の対象でもある。古くから神の使いとされ、大切に守られてきた背景があるからこそ、人間と自然の距離がこれほど近く、穏やかに保たれているのだと感じた。街中の看板や道路標識にも鹿のイラストが描かれていて、この地にとって鹿がいかに特別な存在であるかが伝わってくる。
鹿とふれあう体験は、ただの“動物とのふれあい”を超えて、文化や土地の物語に触れる時間でもあった。観光地にいながら、自然と歴史のつながりを五感で感じることができる。神社の参道を鹿と一緒に歩いたときの、なんとも言えない不思議な一体感は、今でも記憶の中に静かに残っている。
公園のベンチに座って周囲を眺めると、鹿たちの姿が自然と目に入ってくる。親子の鹿がじゃれ合う様子、観光客に囲まれて得意げな鹿、日差しの中でまどろむ鹿。そんな風景の中に身を置いていると、どこか時間がゆっくり流れているように感じられた。
奈良での鹿との出会いは、観光名所を巡るだけでは味わえない、日本のやわらかさと静けさに触れる旅だった。カメラを向けなくても、その瞬間が目と心にしっかりと焼き付いていく。そこには、人工的でない癒しと、ありのままの時間が流れていた。
次に奈良を訪れるときも、きっとまた鹿たちに挨拶したくなるだろう。「また来たよ」と言えば、きっとあのまっすぐな瞳で見つめ返してくれる。奈良の鹿は、言葉のいらないやさしさで、訪れる人の心をそっとほどいてくれる。