賃貸物件を退去する際、「敷金が全額返ってこなかった」「思った以上に差し引かれていて驚いた」という声は少なくない。そもそも敷金とは、家賃滞納や原状回復に備えて貸主側に預けておくお金であり、契約終了時に精算される性質を持っている。本来は、未払い家賃や修繕費用などが差し引かれた上で、残額が返還されることが前提となる。しかし現実には、すべてがスムーズに返還されるとは限らない。敷金が返ってこないケースには一定の理由があり、その多くは事前の理解と行動によって防ぐことができる。
返還されない理由のひとつは、契約書に「ハウスクリーニング費用の負担」が明記されているケースである。たとえ特に汚していないと感じていても、退去時に一律でクリーニング費用が差し引かれる契約内容となっていれば、それは正当な差引理由となる。近年ではこのクリーニング費用が「敷金から差し引く」形で運用されることが多く、契約書にその旨が明記されていれば、入居者はあらかじめ理解しておく必要がある。
次に多いのが、原状回復にかかる費用である。これは主に借主の故意や過失によって生じた損傷や汚れが対象となる。例えば、壁の穴やタバコによるクロスの変色、フローリングの深い傷、設備の破損などがこれにあたる。一方で、経年劣化や通常の使用による損耗については、借主が負担する義務は基本的にない。しかし、この「通常損耗」と「過失による損耗」の線引きが曖昧なことが、敷金返還をめぐるトラブルの要因となる。例えば家具の跡や冷蔵庫の裏の結露によるカビなどが、どちらの範疇に含まれるかをめぐって主張が分かれることがある。
さらに、家賃や共益費の未払いがある場合、その分は当然ながら敷金から差し引かれる。退去月の家賃を日割りで精算しているか、光熱費の清算が終わっているかなども確認する必要がある。実際に敷金の返還額がゼロ、もしくはマイナスとなるケースでは、これらの滞納や追加請求が絡んでいる場合が多い。
こうした敷金返還トラブルを避けるためには、いくつかの対策が有効である。第一に、入居前の契約内容をよく読み込むことが挙げられる。敷金の定義、クリーニング費用の負担有無、原状回復の基準がどこに設定されているかを理解することは不可欠である。特に「特約」として記載された条項は強い拘束力を持つため、その内容を見落とさないことが重要だ。
次に、入居時と退去時の室内の状態をしっかりと記録しておくことも対策のひとつである。写真や動画を撮影し、傷や汚れの有無を可視化しておくことで、退去後の主張に客観性を持たせることができる。特にトラブルが起きやすい壁紙や床、設備まわりの状態は重点的に記録しておくと良い。
また、退去前にはできる限り丁寧に掃除を行い、備品の整備や小さな補修が可能であれば自分で対応しておくと、過剰な修繕費請求を防ぐことにつながる。例えば市販の洗剤で落ちる水回りの汚れや、ネジのゆるみを締め直すといった行動は、わずかな手間でトラブル回避につながる。
もし、返還額に納得がいかない場合には、まず管理会社に明細の提示を求め、具体的な内訳を確認することが大切である。納得できる根拠が示されない場合には、消費生活センターなどの第三者機関に相談することも選択肢となる。敷金に関するトラブルは全国で多数発生しており、判例やガイドラインが蓄積されているため、冷静に対応することが望まれる。
敷金が返ってこないという状況は、単なる金銭トラブルにとどまらず、借主としての気持ちにしこりを残すことが多い。だがその多くは、契約の理解と丁寧な対応によって未然に防ぐことができる。退去とは、新しい生活への第一歩であると同時に、これまでの住まいに対するひとつの区切りでもある。その最後を気持ちよく締めくくるためにも、敷金に関する知識と対策を備えておくことは大きな意味を持つ。