日常に戻ってからしばらく経ったある朝、コーヒーを飲みながら窓の外を見ていたとき、ふと気づいた。風の揺れ方がきれいだと感じたのは、いつぶりだっただろう。きっと日本の旅で、何度もそんな小さな風景に立ち止まったからだと思う。忙しさに慣れすぎていた自分の感覚が、旅の中でゆっくりとほどかれていた。
日本の旅は、特別なことがなくても、なぜか心に残る。目立つアトラクションや賑やかなショーがなくても、道ばたの花や神社の石段、コンビニのやさしい灯りが記憶に焼きついている。そして不思議なことに、その静かな記憶たちが、日常に戻ったあとも生き続けている。
あのとき感じた、光の射し方。畳の匂い、湯呑みに手を添える動作、静かにお辞儀をする人の姿。そうした一瞬一瞬が、今の自分の暮らしの中にも、そっと混ざり込んでいる。日本で出会った風景や人は、旅先の出来事として完結するのではなく、私の中で“感じ方”そのものを育ててくれていた。
日本では、「美しい」と思えるものが、決して派手ではなかった。むしろ、目立たず、語らず、そこにあるだけのものが美しかった。静けさ、余白、整えられた空間、控えめな笑顔。旅の間、何度もその“静かな感動”に出会った。だからこそ、日本での旅は、感性を深く揺らす旅だったのだと思う。
そしてそれは、帰ってきた今も続いている。食器を丁寧に洗い、机の上を拭き、朝の光を感じながらコーヒーを飲む。以前なら気にもとめなかった日常の風景が、どこかあたたかく感じられるようになった。日本で覚えた「丁寧に暮らす」という感覚が、自分の中で静かに息づいている。
旅先で撮った写真を見返すことは少ないけれど、あのときの音や匂い、風の動きは今でも鮮明に思い出せる。記憶の中に残るのは、目に見えるものより、心が動いた瞬間なのかもしれない。だから、日本での旅は、アルバムではなく、自分の感性そのものの中に刻まれている。
もう一度行きたい場所がたくさんある。同じ場所でも、違う季節に訪れてみたい。前回は素通りした小さな道を歩いてみたい。違う角度から、同じ風景を見てみたい。そして何より、違う気持ちの自分で、またそこに立ってみたい。そう思える国に出会えたことは、人生の中でも大きな喜びだった。
日本の旅は、“終わったあとに育っていく旅”だった。自分の中で、旅の記憶が少しずつ枝を伸ばし、花を咲かせているような感覚がある。そしてその花は、いつかまた旅に出るとき、もっと深く美しく咲くのだと思う。
だから日本への旅は、一度きりでは終わらない。それは感性を耕す時間であり、自分と向き合う静かな対話でもあった。旅のあいだだけでなく、日常の中でその記憶が生きていく。そのことに気づかせてくれた日本に、今は心から感謝している。
次の旅がいつになるかはわからない。でも私は、もう知っている。日本に行くことは、ただ遠くへ出かけることではない。忘れていた自分の“感じる力”を、もう一度思い出すための時間なのだ。日本の旅は、静かに、でも確かに、人生を豊かにしてくれる。




