日本を訪れて体験した中でも、ひときわ記憶に残っているのが「茶道」だった。抹茶を飲むだけの儀式だと思っていたけれど、実際に体験してみると、それは“静けさ”そのものに包まれるような、特別な時間だった。音を立てないように歩く、無駄な動きをしない、湯を注ぐ音に耳を澄ませる。どれもが新鮮で、まるで時間の流れそのものがゆっくりと変化していくような感覚を味わった。
体験したのは京都の町家の一角にある茶室。畳の匂い、障子越しの光、掛け軸と季節の花が飾られた簡素な空間に、一歩足を踏み入れただけで空気が変わるのを感じた。説明を受けながら静かに座り、亭主の一挙一動を見つめる。抹茶を点てる手元、水差しを置く角度、茶碗を回す手の動き。そのどれにも意味があり、迷いのない所作に見入ってしまった。
茶道は「一服のお茶を通してもてなす」という行為だが、そこに込められているのは季節、空間、道具、心の準備、そして互いへの敬意である。言葉は最小限。けれど、出されたお茶の色や香り、器の手触り、口に含んだときの苦味や温度。そのすべてが豊かに語ってくる。
特に印象的だったのが「音」だった。静かな部屋の中で、茶釜から湯気が立ち、湯を注ぐ音がぽとぽとと響く。茶筅で抹茶を点てる音、茶碗を置くときのかすかな響き。それらの音が重なる瞬間、まるで音楽のように心が整っていく。沈黙が心地よく、ふだんどれだけ騒がしい環境に身を置いていたかに気づかされた。
飲むときもまた、作法がある。茶碗を軽く回し、一口目を静かに含む。苦味の奥に、旨味と香りがひろがり、喉を通ったあとに心地よい余韻が残る。茶碗の模様を眺め、手でその感触を楽しむ。そして最後に「けっこうなお点前でした」と礼を伝える。何気ないひとつひとつの行動が、自分を丁寧に扱う時間へと変わっていった。
茶道には正解や競争がなく、「今この瞬間」を大切にする哲学があると感じた。忙しさや効率とは真逆の世界。無駄がないというより、すべてに意味がある。そこに身を置くだけで、自分の呼吸や姿勢、意識が自然と整っていくのが不思議だった。
この体験を通して、日本人が持つ“もてなし”の精神にも触れることができた。派手さはないけれど、相手の心を静かに包むような気配り。季節の茶菓子、掛けられた掛軸、庭に咲いた一輪の花。どれもが、訪れる人の心にそっと寄り添っていた。
体験後は、ただお茶を飲んだという事実以上に、自分の内側に残る静けさが印象的だった。言葉では説明しきれないけれど、たしかに心が整っている感覚。忙しい旅の途中でこんなにも深く落ち着ける時間があるとは思わなかった。
次に日本を訪れるときも、また茶道を体験したい。違う季節、違う道具、違う空間。それぞれの茶の湯に、それぞれの静けさがあるのだと感じたから。茶道は、日常を離れて「いまここにいる」という感覚を思い出させてくれる。静寂が美しいとは、こういうことだったのかもしれない。