2025/06/09
熊本の馬刺し文化と食のタブーを超えた誇り

日本の食文化は、地域ごとに豊かな多様性をもつ。山の幸と海の幸の違い、調味料の濃淡、季節や風土に根ざした食材の選び方。その中で、熊本に根づく“馬刺し”文化は、きわめて特異でありながら、地域の誇りとして揺るぎない存在感を放っている。

馬肉を生で食べるという食文化は、日本全体で見れば少数派であり、歴史的にも宗教的にも「タブー」とされることが多かった。とりわけ、四足の獣を食べることを避けるという仏教的価値観や、家畜に対する感情的な距離の取り方が、食としての馬肉の受容に大きな壁をつくってきた。

しかし熊本では、この「壁」を乗り越え、馬刺しを日常的な食文化として受け入れてきた。それは、単に「珍味」としての扱いではなく、儀礼や贈答、家庭の特別な食事における誇らしい一品として定着している。地元の人々にとって馬刺しは、“郷土そのもの”とすら言える存在なのだ。

この背景には、歴史的・地理的な要因が重なっている。熊本は古くから軍馬の産地として知られ、山間部では農耕にも馬が利用されていた。そのため、馬という動物は生活に密着した存在であり、時には貴重な栄養源でもあった。とくに、冬場に魚介類が手に入りにくい内陸部では、保存性が高く栄養価に優れた馬肉が重宝された。

馬刺しの魅力は、その独特の食感と繊細な味わいにある。牛肉よりも脂が軽く、豚肉よりも赤身の旨みが濃い。そしてなにより、臭みが少なく、生食に向いた特性を持つ。適切に処理された馬肉は、口に含んだとたんに繊維がほぐれ、じわりと甘みとコクが広がる。脂はさらりとしており、舌にまとわりつくような重たさがない。

特に熊本では、刺身として提供される部位にこだわりがあり、赤身だけでなく、たてがみ、ふたえご、レバーといった希少部位まで、さまざまな味と食感を楽しむ文化がある。これらを、甘みのある専用の醤油と生姜やにんにくなどの薬味で食べるのが一般的なスタイルで、地域の調味料の味わいとも密接に結びついている。

さらに、馬刺しは単なる「食材」にとどまらず、地元の生産者や食肉処理業者の高度な技術と衛生管理に支えられている。生で提供されることを前提とした厳格な処理工程は、全国的にも高い水準を誇り、安心・安全の確保が徹底されている。そうした努力の積み重ねが、地域の信頼を築き、「熊本の馬刺し」というブランドを生み出している。

熊本の馬刺し文化が興味深いのは、その存在が「食のタブー」に対する新たな価値観を提示している点にある。食文化には、しばしば倫理や宗教、感情的な要素が介在する。何を食べ、何を食べないかは、人間の文化的選択であり、時に他者との摩擦を生む。しかし熊本では、馬刺しを誇りを持って語り、食卓に供し、その味を未来へと受け継ぐ姿勢が、文化的成熟として存在している。

馬刺しが「郷土の味」であるという認識は、地元の人々だけでなく、県外や海外の訪問者にも共有されつつある。食を通じて土地を知る、という旅のあり方のなかで、熊本の馬刺しは、その土地の自然や歴史、人々の暮らし方を一皿の中に凝縮して伝えてくれる。旅先で出会う馬刺しの味は、単なる「珍しい料理」ではなく、「熊本という土地の記憶」として残る。

とはいえ、この文化が当たり前に存在するわけではない。生産頭数の減少や、消費の多様化、動物愛護の観点など、社会的な課題も少なくない。しかし、だからこそこの文化は今、問い直され、次の世代にどう伝えるかという課題と向き合っている。

熊本の馬刺しは、単なる地域の名物ではない。それは、長い時間のなかで築かれてきた暮らしの知恵であり、自然との関係性であり、食と命に対するまなざしである。そして、その存在は、「何を食べ、何を食べないか」を個人の価値観としながらも、他者の文化を尊重し、理解しようとする姿勢を育てる。

食のタブーを超えるということは、単に境界を破ることではなく、そこにある背景や文脈を知り、対話を始めることにほかならない。熊本の馬刺し文化は、その静かで強い誇りとともに、これからの「食の多様性」のあり方を私たちに問いかけてくる。