2025/06/28
ごみは家に持ち帰る 公衆ゴミ箱がないのになぜキレイ?

日本の街を歩くと、その清潔さにまず驚かされる。観光地でも繁華街でも、ごみが散乱している風景を見ることは少ない。だが、よく見れば道端に設置されたごみ箱は非常に限られており、時にはまったく見つからないことさえある。公共の場にゴミ箱が少ないにもかかわらず、なぜ日本の街はこれほどまでにきれいなのか――その背景には、“ごみは持ち帰る”という静かなる共通意識と、暮らしの中に根付いた美意識がある。

日本では、学校や地域活動を通して幼いころから「自分のごみは自分で処理する」という教育を受けて育つ。運動会や遠足のあとの「ごみ拾い」は当たり前であり、公共の場を“借りて使っている”という意識が自然と身についている。そのため、コンビニで買った飲み物やお菓子を外で食べたあとも、包装ごみをバッグやポケットに入れて持ち帰るという行動は、ほとんどの人にとって習慣化されている。

また、バブル崩壊後の1990年代には、公共のゴミ箱がテロや治安対策の一環として撤去される動きが進み、それ以降「ごみは持ち帰るもの」という風潮がより強まった。ところが、それでも街が汚れないのは、“ごみを出さない工夫”や“ごみを隠すための気遣い”が、個人レベルで日常的に行われているからにほかならない。

この習慣は、単なるルール遵守ではなく、「他人に迷惑をかけない」「公共の空間を美しく保ちたい」という美意識の表れでもある。おにぎりの包装をそっと畳んでバッグにしまう、ティッシュを使ったあともレシートで包んで隠す、ベンチで飲んだ缶コーヒーを持ち帰る――そうしたひとつひとつの行動が、誰に言われることもなく自然と行われている。

訪日外国人にとっては、「ごみ箱がないのに、なぜ捨てる人がいないのか」と不思議に感じるかもしれない。だがそこには、“場所と人の関係性”を大切にする日本人の価値観がある。公共の場も“誰かの所有物ではないが、誰かの手によって整えられている場所”という意識があり、自分がその一部であるという感覚が行動に表れているのだ。

だからこそ、日本では「きれいに使う」ことが社会全体の信頼を維持する一種の無言の約束となっている。そしてその清潔さは、ごみ箱の有無や法的ルール以上に、日常のひと手間と、他人の目に対する配慮によって守られている。

ごみを“持ち帰る”という行動の中に、ただのマナーではない、共同体の静かな美徳が宿っている。それが、見えないところで日本の街を支えている最も強い力なのである。