2025/07/03
用の美 暮らしに息づく、つくりの思想

日本には、見た目の装飾を追い求めるのではなく、使うという行為の中に美しさを見いだす「用の美」という考え方がある。これは、ただ美しいものを鑑賞するのではなく、日々の暮らしの中で使われ続ける道具にこそ真の美が宿るという思想であり、民藝運動を通じて広く知られるようになった価値観でもある。

用の美とは、実用性と美しさが矛盾するものではなく、むしろ一体となって存在するという考え方である。茶碗、箸、布、籠、家具。どれもが特別なものではないが、手に取ったときの感触や、使っているときのなじみ方、目にしたときの安心感のようなものが、人の心に静かに染み込んでくる。

たとえば、陶器の湯のみには持ったときの重みや指に触れるざらりとした感触がある。木の器には季節の湿度や手のぬくもりが映り込む。手織りの布は、少しの不均一さがあることで、かえって心地よいリズムを感じさせる。これらは、使う人の生活に寄り添いながら、時とともに味わいを増していく。

美しいというよりも、使いやすい。目を引くというよりも、目に馴染む。こうした道具は、決して主張はしないが、使い手の日常の中で確かな存在感を持ち続ける。使い終えたあと、棚に戻すときにふと手が止まるような、そんなささやかな美しさが「用の美」にはある。

この美しさは、作り手の思想によって生まれている。素材を選び、形を決め、手を動かす。そのすべての工程において、誰かの手に渡り、日々使われることを想像しながらつくられている。派手さや個性を打ち出すのではなく、長く使われるための丈夫さ、手直しのしやすさ、無理のない形。それらが設計の中心にある。

また、用の美には、時代を越えて愛される力がある。流行に左右されない素朴な形や、素材の良さが活きた仕上がりは、世代や地域を問わず多くの人の心に届く。それは、装飾よりも機能を、奇抜さよりも誠実さを大切にしているからこそである。

この考え方は、現代の暮らしにも静かに浸透している。大量生産された安価なものに囲まれた生活の中で、ひとつひとつに物語や温度を感じる道具を手にすることは、自分の時間や感覚を大切にすることにもつながる。便利さや効率では測れない心地よさが、そこにはある。

そして、使い続けるという行為そのものが、美しさを育てていく。傷がついてもなお使われる器、洗い重ねて柔らかくなった布、日に焼けて風合いが変化した木。それらはすべて、使い手と時間が加わったことで完成する美である。道具と共に暮らすという意識が、暮らしそのものを豊かなものへと変えていく。

用の美とは、飾るための美ではない。それは、人が日々の生活を丁寧に重ねる中で、静かに輝くものである。目立たずとも、手に取るたびに心が和らぐようなもの。その美しさは、暮らしの中にこそ息づいている。