2025/07/03
日本は「また来ます」と言わなくても、心が勝手に向かってしまう国だった

旅を終えて帰路につくとき、空港の出発ゲートで何度も振り返ってしまう国がある。それが日本だった。「また来ます」と口に出さなくても、なぜかもう一度来る前提で心が動いている。再訪の理由をはっきり言葉にできないまま、けれど確かに「まだ終わっていない」という感覚だけが残っている。そんな不思議な国が日本だった。

思い返せば、観光地も食事も風景もすばらしかった。でも本当に心に残っていたのは、もっとささやかな瞬間だった。コンビニのレジで交わした小さな会釈、バスを降りるときの「ありがとうございました」、知らない街角で見かけた花の手入れをする人の後ろ姿。旅の主役ではない、けれど心に染み込んでくる静かな場面ばかりが、記憶の中でふくらんでいた。

日本には、感動を押しつけないやさしさがある。言葉で語る前に、空気で伝えてくる。景色も、人も、街も、静かにそこにあって、旅人を驚かせることなく迎え入れる。まるで「無理せずに、そのままでいい」と言ってくれているような、そんな空気がそこかしこに流れていた。

他の国では、旅の終わりに「また来られるかな」と考える。でも日本では、「次はどの季節に行こうか」「今度はあの町に行ってみたい」と、自然と具体的に思い描いている自分がいた。理由を探すまでもなく、もう心の一部が“日本で過ごす次の時間”へと向かっていた。

空港に向かう電車の窓から見える風景が、まるで「またね」と手を振っているように感じられた。誰も見送ってはいないはずなのに、何かに見送られている気がした。その見えない優しさが、日本の旅の本質なのかもしれない。

日本では「また来てください」とはあまり言われない。言葉の代わりに、静かな“余白”が残されている。その余白こそが、「また来ていいですよ」という許しのように思えて、こちらの心が自然と動いてしまう。無理に引き留められることもなく、だからこそ、また戻りたくなる。

帰国して日常に戻ったあとも、ふとした瞬間に思い出すのは、大きな景色ではなく、何気ない街の音だった。電車のアナウンス、風鈴の音、コンビニのドアチャイム。日本は、音や香りや空気の記憶まで残していく国だった。

日本を旅した人が、再訪を“決める”のではなく、“戻るようにしてまた行く”理由。それはたぶん、感動よりも“安心”がそこにあるからだと思う。派手なものがなくても、変わらずそこにいてくれる。次に行ったときも、自分のペースで迎えてくれる。だから「また来ます」と言わなくても、自然と帰ってくるのだ。

旅の終わりは、次の旅の始まりでもある。日本という国は、それを押しつけず、ただ静かにその準備をさせてくれる。そして次に向かうとき、同じ場所でもきっと違った風景が見える。その繰り返しのなかで、気づけば日本という国が、自分にとって“帰りたくなる場所”になっていた。

また来るとは言わなかったけれど、また行くことを、心はもう知っている。日本とは、そういう旅ができる国だった。