旅の記憶というのは、不思議なもので、時間が経つほどに輪郭がはっきりしてくることがある。日本を旅していたときは、何もかもが静かで、ゆっくりで、やさしかった。でもそのやさしさの本当の意味がわかるのは、旅が終わってからだった。ふとしたときに思い出す小さな風景が、自分の人生の中で“支え”のような存在になっていると気づいた。
あの神社の階段を、深呼吸しながら登った朝。商店街の八百屋で買ったみかんの味。夜のコンビニにともるやさしい明かり。日本での時間は、特別なことが起こったわけではないのに、心の奥にずっと残っている。たくさんの国を旅してきたけれど、日本だけは「思い出す」というより「戻る」感覚がある。
次に訪れるとき、「また来ました」と言うより、「ただいま」と言いたくなる国。観光ではなく、心の居場所として戻ってこられる国。そんなふうに感じる場所は、人生の中でもそう多くない。
日本では、訪れるたびに自分の“今”が映し出される。以前に立ち寄ったカフェ、歩いた小道、泊まった旅館。同じ景色のはずなのに、違って見えるのは、自分の気持ちが変わっているから。旅が風景を変えるのではなく、風景が自分の変化を映してくれる。それが、日本の旅の深さだった。
この国の美しさは、誰かに説明するのがとても難しい。桜が咲いていた、紅葉が綺麗だった、料理が美味しかった――それは確かに事実だけれど、それだけでは足りない。日本の旅の本質は、風景や体験の中にある“余白”に宿っている。その余白が、旅人にとって思考や感情を置くためのスペースになる。そしてその静かな余白は、日常に戻ったあとも、自分の中にずっと残っている。
日本で過ごした日々は、まるで未来の自分と会話をしていたかのようだった。まだ言葉にならない思いや、整理しきれない気持ちに、名前をつけなくてもいいよと語りかけてくれるような空気があった。だからこそ、何度でも立ち戻りたくなる。「次にまた行こう」というより、「また自分を整えに戻ろう」と思える。
それは、ただの“リピートしたい旅先”ではない。旅を通して、自分自身とつながり直せる“場所”であるということ。行くたびに、新しい発見がある。そして、行くたびに、「ああ、私はこれでよかったんだ」と思えるような安心感がある。
日本は、未来の自分に出会うための場所でもある。次に訪れるとき、どんな気持ちで、どんな景色に出会うのかはまだわからない。でも、それを受け止めてくれる風景が、必ずまたそこにあるという確信がある。それだけで、人はまた旅に出られる。
旅は地図にない場所へ行くことではなく、自分の中に“帰ってこられる場所”を持つことなのかもしれない。日本は、私にとってそんな場所になった。行って、帰って、思い出して、また向かう。その静かな循環が、これからの人生のなかで何度も繰り返されていく気がしている。
「また来たい」と思う旅先はたくさんある。でも「また戻ってこられる」と信じられる場所は、そんなに多くはない。日本はその数少ないひとつだった。そしてこれからも、そうあり続けてくれると思っている。旅の終わりではなく、旅の途中にいるような、あの感覚とともに。




